安全登山のために
        No,64

 

子どもたちのサポートと安全

洞 井 孝 雄

入道ケ岳の山頂から二本松尾根を下って、滝ガ谷道への分岐を椿大神社の方へ取ると、山の腹をように付けられた細い道からジグザグの急な道を沢筋に下って行くようになる。もう10年近く前のことになるが、大学生だった娘が、たまたま帰省していて、記念登山に参加することになった。経験も体力もあるので子どもたちのパーティーのサポートにつけたのだったが、後ろからその動きを見ていて驚いたことがあった。小さな子どもの手を引いてジグザグの道を下りながら、曲がり角で子どもとつないでいる手を持ちかえ、必ず子どもが山側、自分は谷側を歩くように態勢を入れ換えていたのだ。彼女が小さな頃に(3,4歳から中学生になるまでは記念登山にずっと参加してきたのだ)受けたサポートの仕方を覚えていたのか、無意識のうちに自然にやったことなのかはわからない。が、誰からも指示されたわけではないことは、他のメンバーがそういうサポートをしていなかったことを見ても明らかで、ちょっと嬉しく思ったことがあった。子どもたちも一緒に登って(らせて)しまおう、というのは、会ができて以来の「伝統」のようなものだが、その基本は「子どもたちに自分の力で登らせる」こと、ただし、自分で判断できない子どもたちに対して、安全を確保するためにいつも子どもたちを視野に入れつつ、しかも知らん顔をして見ている、という(これは大変難しいことだし、登山のときには、いっそう困難なことである)おとなの姿勢が問われる。

山では、こうした意識を持ちつつ、臨機応変に安全を確保することが大人たちの責任として問われるということである。谷側に立つ、岩場の下りでは、上下でいつでも支えられるように受け渡す、急な傾斜の下りでは、下で受け止められる態勢を作る、そういうサポートを心がけることが必要だろう。子どもたちは「危ない」という注意や制約よりも、このおとなと手をつないだら安心、飛んでも滑ってもちょっとやそっとでは転ばない、走っても下できちんと受け止めてくれる、そんな心強さや自分の身の安全には敏感である。更に正面から向き合っているかどうかも。子どもたちの安全はおとなの責任である。だからこそ、子どもたちのパーティーには、大人たちのパーティーのリーダー以上に力をもったメンバーの配置を、と口うるさく言ってきてもいるのだけれど、昨今、子どもたちのパーティーに配置される会員の多くの意識が、「子どもたちの面倒を見るのはえらい」というところだけに集まってきてしまっている。子どもたちのサポートが大変なのはあたり前である。会員の高齢化もそうだが、記念登山に参加する子どもたちが減り、しかもかつてほど子どもたちのサポートに習熟した会員や、子育て現在進行形の、いつも子どもたちと渡り合っている会員が少なくなってきていることも、そういう意識になりがちな理由なのかもしれない。しかし理由はどうあれ、これからも子どもたちの参加がある限り、私たちはかれらを無事登らせ、確実に下山させる力を蓄えて行くしかない。

 つづら折れの下りで、上で足を滑らせた子どもの声が聞こえた途端に、下で受け止められるように山腹を走った、とか、路肩から藪の中に入って転がった子どもに飛びついて(藪に飛びこむ、ということだが)止めた、とか、これまでもハラハラドキドキの瞬間がいくつもあったが、基本には常に視野の中に子どもがはいっていた、ということだったのだ、と思う。かつて一件だけ、入会して間もない会員がサポートに配置され、手をつないでいた子どもが急に動いて、その動きに対応できず、手をついて手首を骨折してしまった、という事故があったが、そうした予測不能の動きにも対応できるメンバー配置が必要だったということなのだ、と思う。大変だし、負担もかかるのだけれど、子どもたちのサポートができる会員にみんながなっていって欲しい。サポートができるということはまた、自分の登山力量の表われであると思って欲しいのだ。