温泉そのものよりも前後の行動の記憶
仙人湯小屋と阿曽原小屋近くの温泉
白馬鑓温泉そして東埔温泉
洞 井 孝 雄
私のこれまでの登山の中では、「山」と「温泉」がセットになった計画や、ゆっくり湯につかって…という経験がほとんどない。昔は計画そのものがタイトで、列車の時間などを考えると、温泉に入るような余裕はあまりなかったような気がする。車を使うようになってからも、下山後、温泉につかってから運転して帰るのは眠くて辛い(少なくとも私は)ので、そのまま帰途につくことが多かった。昨今は仲間の車に乗せてもらうことが多いので、汗を流して帰ってくることも増えたが、それは、「温泉」というよりは「お風呂」という感覚に近い。私の「温泉」は、温泉そのものよりも前後の行動の記憶である。強いていくつか挙げる。
剣岳から剣沢、真砂沢、南沢を登ると仙人池ヒュッテ、それを過ぎて、阿曽原峠の手前にあるのが仙人湯小屋である。この小屋の前の断崖に露天風呂が作られていて、宿泊客は、ランプを手に、小屋から素っ裸で走って行って飛び込む。湯船の上には大岩が張り出していてそこに打たれたピンにランプを吊るす。対岸彼方に鹿島槍のシルエットや小屋の明かりを望み、聞こえるのははるか下方の仙人沢の流れだけ。もう40年近く前のことである。
仙人池から阿曽原峠を越えると阿曽原小屋がある。会の合宿で剣岳に登って下山する組とさらに欅平へ向かう組とに分かれて行動したときのこと、阿曽原小屋でテントを張った。小屋の裏手の幕営地から数分歩いたところに温泉が掘られている。男女が入る時間帯が決められていて、時計を見ながら「それでは…」と交代で一風呂浴びにいくのだ。たまたまメンバーのKさんが、酒の味を覚えてしまったのがここであった。天候さえよければ、星空を眺めながらの静かで贅沢な時間を味わうことができる温泉だが、ここで初めて酔っ払った彼女のケラケラという高笑いが夜通し響いて静寂を破られてしまった。飲ませたヤツの責任は重い。
白馬鑓温泉は、息子も娘もまだ小学生だった頃に、彼らを連れて白馬岳に登り、鑓温泉経由で下ったことがある。鑓ヶ岳から小屋までの雪渓で、片方の滑り止めをなくして難渋していた単独登山のおばあさんと行き合った。息子が「お父さん、ボクのアイゼン、貸すわ」と自分の滑り止めを外して渡したのを見て、ものすごく嬉しかった覚えがある。その日の夜に泊まった鑓温泉小屋では旧知のTさんのパーティーと一緒になり、風呂好きの彼につき合って、夜更けまで何度も小屋と露天風呂の間を往復した。翌日は彼らと一緒に下山、名古屋まで車に乗せて貰って帰ってきた。Tさんはその後ローツェに登り、現在はガイドである。
東埔温泉。会の10周年記念海外登山で、台湾の玉山(ぎょくさん。ニイタカヤマである)に登った。当時は蒋介石が亡くなって戒厳令がとっぱらわれた直後で、地図も情報もロクになく、いくつかのツアー会社の玉山登山では嘉義から山頂を往復するのが一般的だったのだが、「山頂を越えて反対側に下り、温泉に入って帰ろう」というオリジナルな計画を立てた。その温泉が東埔温泉(東浦ではない)であった。入山した日は排雲山荘で一泊、翌早朝、山頂で日の出を見、延々10数時間の下降を続けて日暮れ時に東埔に降り立ったが、期待していた温泉は、浅いタイルの(昔々、日本でも使われていたモザイクタイルの流し台のような)湯船に、生ぬるい湯がちょろちょろと流れているだけの、せいぜい足首を浸すことができるほどのお湯しかなく、風邪をひきそうであった。風呂から出ると、とっぷりと暮れた宿の周囲の闇に、5月だというのに大きなホタルが飛び交っていたのを思い出す。