11月3日(日)第32回入道ケ岳(906m)記念登山
70名が山頂で豚汁に舌鼓  洞井 孝雄


<頂上で全員集合>


 <山頂まであとちょっと。まだ、こんなに元気ですよ

 

 半田ファミリー山の会第32回入道ヶ岳記念登山が11月3日に実施されました。この記念登山は、会が発足する前に、初めてみんなで山登りをした(この登山が山岳会を出発させる原動力となりました)1981年11月3日を忘れないようにしよう、と、鈴鹿の入道ケ岳(906m)を会の記念登山の山に決め、毎年同じ日に同じ山、同じコースを登って、会員と会の成長を確認しあおうという位置づけで始められたもので、今年で第32回目を迎えました。

 観光バス二台で参加した会員はじめ一般の参加者は70名。半田を出発して途中御在所SAで休憩し、登山口の椿大神社の駐車場に到着。前夜に山頂に上がって、資材を持ち上げ、朝下山してきた前夜発組のメンバーに迎えられて、子どもパーティー二つ、大人パーティー七つの計9パーティーにわかれて、自己紹介と諸注意、装備の確認、ストレッチなどをおこなって三々五々、井戸谷コースから山頂をめざしました。

天候は曇り。駐車場を出発したのは午前9時前後。椿神社わきの林道から右に北尾根の登山口、さらに二本松尾根の登山口を左に分けて最奥の井戸谷コースの登山口へ。植林の中の急な登りから井戸谷の流れを分けて灌木の中をたどり、山頂手前のアセビの群落からササの斜面を登るようになると稜線の登山道と合流。平坦なアセビの林の中の道を抜けると、広い山頂に飛び出しました。11時。山頂に張られたテントでは、前夜に荷揚げし、朝から会員が用意した豚汁が湯気をたてています。参加者は、持参したお椀を片手にテントの前に行列。温かい豚汁と一緒に昼食と、山頂の景色を楽しみました。

この日はうす曇りでしたが、風もなく、足元の四日市市街、その向こうの伊勢湾までも見通しがきき、絶好のランチタイムとなりました。

子どもたちも元気よく山頂をかけまわっていました。12時。テントを撤収。再びパーティーごとに二本松尾根を下山。14時には、全員が下山を終えて、駐車場で集会。無事に山頂を踏んで下山できたことを喜びあうとともに、今回の登山の準備に尽力した実行委員の仲間たちに感謝の拍手を贈って、第32回の記念登山を終えました。

 

2013.11.2夜・3 第32回記念登山

前夜発と本番から         洞井 孝雄

今年の第32回入道ヶ岳記念登山は11月3日に実施された。例年、11月3日前後に設定されて実施されてきているのだけれど、今年は土日月ところによれば三連休の真ん中、それこそ半田ファミリーの会員は文化勲章でももらうか、何か別の用事でもなければ、入道ヶ岳以外の山に出かけるという選択肢はなくて(最近は、マラソン大会とか文化の日らしいイベントがあちこちで行われるようになって、そちらに予定をとられるひとたちも増えて来たので、実行委員会も参加者を集めるのに気がもめるようになってきたのだが)ちょっと気の毒だが、ま、その前後に別の予定を入れてもらうことで我慢してもらおう。30年以上も入道ケ岳以外には出かけたことのないやつもいるので、ご勘弁を。土曜日はなんとか持ちそう、日曜日は昼から雨、そんな空模様がうまいことずれてくれて、前夜の荷上げも当日本番も、降られずに済んだ。

 

午後7時発。御在所SAでひと息入れて、鈴鹿ICを降り、椿大神社脇の林道奥まで車を乗り入れる。 今年の前夜発のメンバーは10名。私の荷上げ分として渡されたテントマットと申し訳程度の食材をザックに入れ、パンパンに膨れ上がったザックを担いだ仲間たちと出発。最初の沢の渡渉の手前で、左の踏み跡に入ったら、後ろから声がかかった。

「こっちに目印がついてますよ」

ほい、しまった、こっちだった。この30年の間に、いやここ数年の間にも、随分と登山口周辺の様子は変わった、と思う。もとの道に戻って、樹林にはいると、やっと見慣れた植林帯を登っていくことになる。後ろを歩いているYは、今回が前夜発デビューなので、休憩ポイントや要注意ポイントを説明しながら登っていく(Yにとってはうるさいばかりだったかもしれない)。石神の石段の前から山腹のトラバース、ガレの斜面の下から井戸谷に出合い渡渉。土のう袋で補強した斜面から斜面を巻いて樹林の中に入り、ジグザグを登って避難小屋、最後の水場で休憩。水はここで補給すれば、と言ったのだが、誰も反応しない。ま、沢の水を使うことを嫌がるメンバーもいるようだし、ボッカするつもりならそれはそれでいい。出発の時には先制点を挙げていた楽天が巨人に逆転されているという話題で持ちきり(結局日本シリーズは本番当日に持ち越されることになった)。

再び出発。踏み跡は明瞭だが、雑木が倒れて道をふさいでいたりすると、それに気を取られてルートを外れる。「こちらに道ついてますよ」などと後から指摘されて、また、ほい、しまった、である。やがて道の両脇に竹の低いササが現れ、右手にアセビの群落が現れ、振り向くと四日市方面の夜景が見えるようになる。うっすらと黒いベールをかぶったような光の塊が足下に広がる。道は傾斜を増して、山頂部の登山道に突き上げ、やがてアセビの林の中を通って山頂である。

二年ぶりの前夜発だ。一昨年は漆黒の闇。昨年は雨の中だったそうで、今年はまた雨や風に叩かれるか、それとも煌々とした月明かりか、などと想像を巡らせて出かけたのだけれど、結果的には雨にも風にも、月明かりにも遭わず、暑くもなく寒くもなく、見通しもそこそこの山頂でテントを張った。簡単にミーティング(なんとなく、白けた感じだったのだが、そう感じたのは私だけか)をして就寝。雨も降らず、風もなく、それほどの冷え込みもなく、朝を迎えた。

 

3日、6時起床。曇り。少し風が強い。残すテントをどこに移そうか、と考えた末に、やはり、火器を使うのなら、少々風が強くても、底が平らで安定している方がいいだろう、といつもの頂上部にひと張りを残し、あとは撤収。持って下れるものはすべて背負って井戸谷道を下山。1時間足らずの下山。林道奥に停めた車に乗って、椿大神社手前の駐車場に戻り、本隊の到着を待った。電話連絡では、御在所SAから先は渋滞しているらしい。

 

本体を乗せたバスが到着。

久しぶりに見る顔、初めての顔、そしていつもながらの仲間たちの顔。それぞれのパーティーに別れ、出発準備。自己紹介からストレッチまで手慣れたものだ。

準備ができたところから三々五々出発する。一番小さな子どもたちのパーティーが最初だ。最後のパーティーについて歩き始める。これからは山頂まではこぼれるひとのないように一番最後を登っていく。当然のことながら、足並みや休憩のタイミングで最後尾のパーティーは前後する。子どもたちのパーティーになったり、ゆっくりのパーティーになったり、と忙しい。一般の参加者の一人が登山口手前の林道の登りで早くも遅れ始めた。このまま山頂まで一緒に歩くことは難しそうなのでリーダーが付添い、後のメンバーは山頂に向かうようにした。サブリーダーをリーダーにし、メンバーをサブリーダーにしてパーティーを組み直し、遅れたメンバーにつき添うリーダーには、リミットを11時とし、時間になったらその場から引き返すことを確認した。それ以降は、前後する各パーティーを見ながら。最後尾を登った。最後尾が山頂に着いたのは11時。早い!

朝方の強い風も弱まり、曇りではあったけれど眺望もそれほど悪くはなく、冷え込みもそれほどでもない。悪天を覚悟していた割にはいいコンディションで登れたのかも知れない。

12時15分、下山開始。子どもたちは、わがままをいって大人を手こずらせるだけで、歩くことには何の心配もない。むしろ、日ごろ運動不足のおとなの参加者たちの慣れない下りの歩行や足ツリなどで、スピードが少し落ちた。

「小さな子どもたちが、テープを用意して高齢者のゴールインを待ってますよ」などと冗談を言いながら下ったが、それでも14時には、全員が下山を終えた。

子どもたちのパーティーについて歩きながら、

「もう、子どもたちのサポートは卒業させて、って言ったのよ。責任重いし…」

「まだまだ。だって、目が行きとどいて、簡単に抱いちゃうわけじゃなくてちゃんと歩かせることのできる人は少ないんだもの。責任重いのはわかるけど…」

「もっと重いもの背負っているひともいるのも知ってるけどね…」こんな会話をかわした。年齢の高い参加者のパーティーでは、なにやら話がはずんでいる。

「何なの?あの都はるみの歌みたいな話は?」

「なんのこと?」

「三日遅れの便りを乗せて…って歌があったじゃないか」

「ああ、あのことね。でも都はるみってわかるのも私までですよ」

三日遅れというのは「筋肉痛」の話であった。サポーターやリーダーの仲間たちと、話をしながら、足を動かしているうちに、やがて、アセビの群落からササの斜面になる。

「この辺りのササもほんとになくなってしまったわね。前は子どもたちの背丈くらいあって、かきわけて登っていく子どもたちがササが顔に当たる、って泣いてたものだけど…」

 

かつて、11月3日の文化の日は、「国民の祝日」として、もっと貴重なものだった。それほど今のようにイベントもなく、「記念登山」と競合することもなく、参加者もまたコンスタントに(今でも定着した取り組みとして根をおろしていると思うが)申し込みをしてくれたし、特異日として天候についてもそれほど神経をとがらすようなことはなかった。もっと牧歌的で、のんびりしていたような気がする。

前夜発も、「荷揚げ」という目的はあったけれども、それ以上に、土曜日の半日の仕事(かつては半ドン、という言葉があったように、土曜日は昼まで仕事をしていて、午後から日曜日にかけての一日半が登山者にとっては、とても大事なまとまった時間だったのだ)を終えて、家に帰り、山支度をして夜、山頂に上がる、幕営する、下山して再び登る、というサイクルが、ある意味ではそのサイクルを体現できるということが山岳会としての力量の一端を示すことであったり、五感を総動員して、自分自身と自然とが交感する場であったり、日常の山行のベースを蓄積するトレーニングであったりする意味を持っていると、ずっと考えてきたが、今では、自然に対しての信頼関係も崩れて、沢の水すら飲んで大丈夫かどうか、どうすれば利用できるか、ということより、担いであげればそれで済むという力技で片付けるような付き合い方に変化してきているように見える。

もうそういう時代ではなくなってきているのかも知れないナ、とも思える。休みはもっと長く、地球はもっと狭くなってきている。荷揚げは荷揚げ以上の意味を持たなくなってきているらしい。

ともあれ、第32回の記念登山も無事終わった。

みなさんお疲れさまでした。