一枚の紙切れのむこうに
−計画書は登山を学び、事故を抑止するツール−
洞井孝雄
「もう一度、練り直せ」
ある山岳遭難事故の訴訟の証人になったことがあります。弁護士の尋問に対して、リーダーの役割や計画書の意味などについて、一登山者の立場から考えを述べました。
「リーダーには責任があると考えられますか?」
(法的に責任があるかどうか判断するために、今、裁判やってんじゃないの?)
「ええ、あると思いますよ。ただ、私の言う責任というのは、リーダーは、パーティーを安全に登らせ、確実に下山させる、そういう責任を負っているということです」
「・・・・・・・・・」
(あれ? 何か違うこと言ったかしら)
「計画書の意味については、どんなふうに考えておられますか?」
「まず、事前に計画を立て、打ち合わせすることで、メンバー全員がどんな日程で、どのような山域に、何を持って入って、どのように行動するか、をきちんと認識すること。自分たちはこのような計画で山に入るんだ、ということを意思表示すること。それを第三者−山岳会では山行管理担当と呼んでいますが−に提出し、客観的なチェックを受ける。日程は十分か、体力や技術からみて、このメンバーでこの季節に、この山域に入るのは妥当か、それに見合った装備や食料が用意されているか、など。その上で問題点があれば指摘を受け、計画の練り直しをすることで、より安全な計画にすること。また、万一の場合に必要な対応がとれるメンバーを留守本部にすることで、山行を行なっている間も仲間が見守っていてくれる、そういう二重三重の危険回避や安全弁の役割を持っていると考えています」
「そんなに手間かけて計画書作って、山に行くのはあなたたちの会だけではないのですか?」
「とんでもない。ほとんどの山岳会が、これまでの活動の歴史の中で組織として創り上げてきた安全対策のひとつとして計画書を位置づけ、運用しているはずです」
「ほう、それで計画書をチェックしたり、留守宅になったりすることで、あなたたちには何か得になるようなことがあるのですか?」
(ばかやろう! 損得勘定でこんなことができるか)
「いいえ。計画書を厳しくチェックすればするほど仲間には嫌われます。でも、事前に危険を回避することで山行の安全性を高め、事故の要因を減らすことができます。仲間がけがをしたり死んだりすることがなければ、ああ、あの時、ひとこと言っておけば・・・・・・と悔やまなくて済む、それだけのことです」
結果的に、この訴訟は敗訴となり、判決文の中では、計画書について「事故が起きた場合や行方不明になった登山者が出たりした場合に、捜索や連絡を容易にする」という程度でしかとらえられず、私たち登山者が、これまで創り上げてきた事前の事故防止・抑止力としての「計画書」の意味や役割は簡単に否定されてしまいました。登山の根幹にかかわる問題として、このままこのようなとらえ方を許してしまうわけにはいかないと思っていますが、一方で、計画書の意味をきちんと理解してもらうことの難しさをも痛感するできごとでした。
仲間たちから出されてくる計画書を見ると、たった一枚の紙切れの向こうに、その計画書を作成した登山者の、安全に対する姿勢や考え方が見えてくるような気がします。
(とってもいい山行でした)
「おい、ちょっと待て。この報告には、オレに怒られたということと、いい山だったということしか書いてないじゃないか。もっと他に言うことあるだろ?」
あるとき、南アルプスの縦走に出かけた会員が機関紙に載せた山行報告に文句をつけました。最初の計画は4人パーティー、二泊三日の日程でした。メンバーの顔ぶれを見ると、足がそろっていません。一日の行程も長すぎます。いくら早発ちをしても、予定をこなすのは難しいはず。このメンバーで、この予定では絶対に無理だと指摘したのですが聞き入れません。
「いったい、なに考えてるんだ。計画をもういっぺん練り直せ」
「でも、私たち、ちゃんとトレーニングしてますから」
「それでも無理なんだよ、これじゃあ」
再検討を求める私に、しぶしぶ当初の計画書は引っ込められました。再提出された計画書では、同じ山域・ルートで、日程が一日増え、メンバーも足のそろった三人になっていました。
問題はここからです。山行報告には、計画書提出時に<ホライさんに怒られた>けれど、天気もよく、とてもいい山行だった、としか書かれていません。しかし、記録の内容を見ると、出発時間は早朝ですが、一日の行程を終えて幕営地へは毎日午後遅くなってから到着しています。日程を延ばし、足がそろってもなお、一日の行動がそういう状況であったということは、最初の計画がいかに無理なものだったかということを示しています。そのことには一切触れないで、怒られた、でもいい山行だった、という報告はないんじゃないの、ということだったのです。
「怒られた」のは、そもそも無理な計画なのに、問題点を指摘しても、あーでもないこーでもないとゴネた結果でした。指摘をうけて計画を見直し、日程を一日延ばした結果、やっぱり言われたとおりだった、という経過を書かんかい! あそこで指摘されなかったらこの山行は途中で失敗していたのだ、というのが文句をつけた理由でした。それに<怒られた>という表現は、<叱られた>と直してもらいたいね。「怒る」というのは感情を爆発させること、「叱る」というのは、その前提となる理由があり、それをただせ、という意味なのですから。
こんなやりとりもあります。
岩登りに毛の生えたような山域ですが、参加メンバーは十数人。その中でザイルを十分に扱えるメンバーは一人。そこそこ扱えるのがこれまた一人か二人。後のメンバーは半数以上が初心者。そんな計画書が出されて、パーティーのリーダーから確認の電話が入りました。
「計画書、出しましたが・・・・・・」
「うーん、ちょっとこれではねえ、よくないんじゃないですか」
「大丈夫ですよ。ザイルで確保していきますから」
「一人でどうするっていうんですか。前と後ろ、これくらいの人数になると中にも一人か二人入って固めないと。あなた以外にそういうメンバーはいないでしょ。もし、何かあったらどうするんですか」
「大丈夫ですよ。何も起こりませんよ」
(まず、この考え方が危ない。危険を予測したり、万が一のことはぜんぜん考えていない。大丈夫だとか、何も起こらない、というのは何が根拠なんだ、いったい。大丈夫だとは考えられないから言っているのだし、そこまで考えて計画立てるのがリーダーでしょうが)
「具体的には言えないけれど、何か起きたら、という可能性は考えてもらう必要があります。一人でこれだけの人数相手では全体に目が届かない。安全を確保することは難しいし、何かあってもなんともしようがないし・・・・・・」
「大丈夫ですよ。自信ありますから。信用してくださいよ」
「自信は、安全に行けるという根拠にはなりません。信用するとかしないとかいう問題でもありません」
「私が責任とりますから」
「そんなもの、とれるわけがないじゃないですか。そういうことになる前に危険を回避することを考えてほしい、と言ってるんです」
「ホライさんだってここへ入ってるじゃないですか。ホライさんが行くときはいいんですか」
「私が行くからいい、とか、行かないからだめ、なんていう問題じゃないですよ。第一、私はそういうパーティーは組みませんもの。これまでのパーティーの構成を見てください。ここへ入るのなら、多くてもせいぜい七、八人。しかも前と後ろを固めることができるメンバーが必ずいて、それ以外のメンバーも半分以上が初心者なんて組み方はしていないはずです。パーティーの中身がぜんぜん違うでしょうが」
「お願いしますよ。みんな一生懸命だし・・・・・・」
「みんなが一生懸命だから、というのは話が違うし、理由になりません。だいたい、そんなところへ行くのに、行きたいという人をみんな、ぞろぞろ引っ張っていく、というのがわからない。お願いされても、これでいい、なんて言えません」
リーダーは、メンバーに対して一定程度の線引きが必要ですし、「行きたい」という人たちも、そこがどういうところなのか知っていて参加することが大切です。自分の力を見ようとしないで、”この人についていけば行ける”、そんなふうに考えたのだとしたら、それは”あなた任せ”以外のなにものでもありません。また、われもわれもとエントリーしてくる人たちを無条件に抱え込んでしまうパーティーは、一人か二人の添乗員(!)に何十人もの参加者が金魚のウンコのように引率されていくツアーと大差ありません。自分が加わろうとしているのはどんなパーティーなのか、どこへ行くのか、それで安全なのかどうかを見ないで参加しようとするのは、一面で自殺行為であるともいえるでしょう。
「行きたい」のと「行ける」のとは違うのです。
山行計画書は、一見、登山者を縛ったり、山行の自由を制限したりするもののように思われがちです。現に、未組織の登山者だけはでなくて、山岳会員ですら、本来の事故防止や安全弁としての計画書の役割が理解できず、無届で山行を実施して死亡したという例もあります。無届だから死亡したのではなくて、その山行が主観的にも客観的にも、パーティーの身の丈に合っているかどうか、万一の場合の対応が考えられているかどうかを認識し、準備する機会を持とうとしなかったからではないのでしょうか。
計画書は、それを作成し提出するパーティーと、それを受け止める組織とシステムがあってはじめて本来の機能を発揮しますが、その組織とシステムを持たない登山者であっても、家族や仲間にわたすようなつもりで登山計画を客観化し、じっくりと組み立ててみてはいかがでしょう。
計画書は、単なる予定表でも、事故や行方不明の際に捜索を容易にするため、といった底の浅いものではありません。事故を未然に防ぎ、登山者が登山の内容を見つめ、学んでいくための重要なツールなのです。
注:この文章は、『岳人』連載のmountaineering seminar(2002年10月号・664)に、筆者が加筆修正したものです)