はじめに

 私と山とのつき合いは、そんなに古いことではありません。まだせいぜい三十ン年、といったところでしょうか。でも、いつの間にか、いっぱしの口をきくようになってしまいました。
 そもそもは、ある年の夏の終わりに、
「おい、たまにはオレも、どこか山に連れてってくれ」
「おお、考えとくわ」
 友人と交わした、こんな社交辞令というか、ほんの冗談のつもりの会話がほんとになってしまったのが発端でした。数日後、
「お前だったら、これくらいじゃないと物足りないだろう、と思って、な」
 そう言いながら、まじめな顔で彼が私に示した計画は、四泊五日の北アルプス。大日岳、剣岳に登り、剣沢から仙人池を経由して黒部水平歩道をたどり、阿曽原、欅平へ抜けるという、けっこうたいした縦走でした。とはいえ、北も南も、アルプスそのものを知らない私にとっては、“ようわからんけど、いっぺん、やってみたろ”くらいの気持ちでした。
 こんな「冗談から駒?」みたいなことから出かけることになったのですが、九月の初めというピークを過ぎた季節のこともあって、行きかう登山者はまれ、天候にも恵まれて、まるで私たちのパーティーだけの貸切みたいな山を歩き、またそのことが、それだけ自然の大きさと、自分たち人間の小さな営みをいっそう際立たせて感じさせてくれることにもなりました。重い荷物、急登、喘ぎ、バテ、山小屋、ランプ、靴ズレ、高山植物、雪渓、岩稜、三千bの山頂、熊の糞、露天風呂・・・・・・。見るもの、聞くもの、触れるもの、すべてが珍しく、新鮮な驚きと感動に満ちたこの五日間が、思えば、私の「登山ことはじめ」でありました。これだけで、
「あー、良かった、おもしろかった」
で、やめときゃ、今頃、もう少しひまな生活を送っていたかも知れないんですが、そのまま思い出としてだけとどめておくには、余韻が強烈すぎました。追い討ちをかけるように、帰って来てしばらくして、連れて行ってくれた仲間のひとりが、
「おれたちの通ってきた道のことが書いてあるぞ」
と、一冊の本を教えてくれたのです。さっそくその本、『高熱隧道』(吉村昭著)を読んでみました。戦時中、黒部峡谷に発電所を設置せよ、という軍部の命令を受けた関西電力が、人跡も稀な黒部の自然と闘い、資材運搬のための隧道を掘る工事の過程を描いたものです。ノンフィクション小説のおもしろさもさることながら、”おれたちは、こんなところを歩いてきたのか”という驚きには大きなものがありました。知らない、というのは強いもので、この苛酷な自然との葛藤の産物である岩壁をくりぬいた道を歩きながら、残り少なくなったタバコを回し飲みして、
「あっ、汚ねぇぞ、ふた口吸ったろ?」
「おまえこそ、ひと口が長すぎるぞ。見ろ、こんなに短くなっちゃったじゃねぇか」
 などと、いじましい争いをしていたんですから、おめでたいものだったわけです。
 これをきっかけにして、私の本漁りが始まりました。地図を買い、ガイド・ブックを買い、山に関する本なら技術書、紀行文、随筆、小説・・・もう手当たり次第。とうとう本だけではおさまらず、結局、半年後には、ザックを背に、ひとりで近郊の山々をブラついているということになってしまいました。
 初めてのあの登山のときには、「危険」とか「安全」とかいう言葉は、私の辞書には全くなかったようです。おんぶに抱っこ、命預けます、で、単純に楽しい思いをさせてもらったのですが、ひょっとすると、あのときの私の山に対する無知な行動や言動を、仲間たちは苦い思いで見聞きしていたのかもしれません。ひとりで歩くようになってからは、道に迷って、ヤブの中から擦り傷だらけになって出てきたり、さんざん歩きまわったあげく、クタクタになってひっくり返ったりしながら、1000メートル足らずの山でも、相手は自然、ひとつ間違えばエライ目に遭うということを少しは知るようになってきました。加えて、ひとりでできることには限界があることも。
 こんなひとり歩きをしばらく続けているとき、決定的なことが起こりました。私の身近なところで遭難事故が起こったのです。詳しいことははぶきますが、ともかく、現地へとんで、捜索の一部始終に付き合うことになりました。この中で、それまでは自分で山を歩きまわることだけに満足していた私の中に変化が起きました。現地にいながら、私には本当の山の知識も技術もなく、なにもできないことに気付いたのです。捜索に加わりたいと思っても、ただストーブに手をかざしてじっと待っていることしかできない、という辛さはたまらないものでした。たった一人の遭難者のために、どれほど多くの労力と費用がかかるかについても思い知らされましたし、原因を分析することを手伝ったおかげで、遭難の要因は、そのすべてが人間によって作り出されているということも痛いほどわかったのです。こりゃ、他人事じゃねぇな、と真剣に考えてしまいました。
 でも、そうした思いは、山から遠ざかったり、登山をやめてしまうというのではなく、逆に、私を深入りさせることになってしまいました。あの野山を歩きまわって、身体を動かすことの楽しさは捨てがたいものになっていましたし、なによりも、コトが起きたときに、何ひとつ役に立たなかった悔しさは、きちんと知識・技術を身につけたい、という要求に変わっていました。「危険だからやめたら?」という周りの声には、
「こんなおもしれぇこと、途中でやめられるかぁ。危ないんなら、危なくないようにやれるとこ、見せてやろうじゃねぇか。死んでたまるか!」
という、反発というか、意地みたないものが頭をもたげてきてしまいました(性格変えんといかんな)。こんなことがあって間もなく、私は「山岳会」に入ったのです。
それからあと、私が経験したり考えたりしたことのいくつかが、これから述べる中身です。
人間ってのは、なにか痛い目に遭わないと身に沁みてわかることができないもののようにも思うのですが、できることなら、その痛い目にも遭わないで、はじめっから痛い目に遭うことを防ぎたい、そんな気持ちで、私自身の拙い経験から得てきたものを最小限のあれこれ、として述べたいと思います。ただし、鵜呑みにしないで批判的にご一読を。なお、この中に出てくる各項目に対応する季節は、雪山・冬山と特にことわってある部分以外、すべて無雪期を対象としています。

私の登山は、冗談と、一冊の本と意地、この三つが出発点になっていると言っていいかもしれません。
考えてみれば、小さな頃は、外の風にあたることが嫌いで、家の中で本ばかり読んでいた、「湯たんぽに針金の手足」と形容したらぴったりの、それでいて鼻っ柱だけは強い、という小生意気なガキが長ずるに及んで、外の風にもっとも近いところで生活するスポーツに首を突っ込み、そのことにかかわって原稿用紙のマス目を埋めるようなことになるとは、思いもよらなかったことではあります。
人間、どこで道を誤るか、わかったものではありませんね、ほんとに。
でも、死ぬということほど大きく道を誤ったわけではありません。生きている、っていう実感があります。では、みなさんも・・・・・・。