序章
相手は自然、何が起きても
あるとき、電話がかかってきました。
「あのぉ、おたくのほうで、子どもたちに沢登りをやらせてみえる(※注1)、と聞いたんですが。実は、私たちも毎年、子どもたちを集めてキャンプをやってまして、今年は沢登り、といっても沢歩き程度なんですが、それをやらせたいと思っているので、おたくのほうで、リーダーを派遣していただきたいんです」
「はぁ、かまいませんけど。で、子どもたちは何人ぐらいですか?」
「だいたい・・・・・・70人から100人ぐらいになると思います」
「そうですかぁ、大変ですねぇ。すると、リーダーは30人か40人くらい要りますね」
「いやいや、とんでもない。一人か二人で・・・・・・」
「えっ、一人か二人?・・・・・・うーん、ちょっと責任持てませんねぇ・・・・・・」
結局、この話は丁重にお断りすることになったのでしたが、子どもを70人から100人近く沢に登らせるときに、リーダー(この場合はテクニカル・サポーターとでも言ったらよいでしょうか)が30人40人要る、という話は、別に私たちにとっては大げさなことでも何でもありません。私たちも毎年、夏に、子どもたちを集めて沢登りなんかをさせたりしていますが、その際のスタッフと子どもたちとの比率は一対二。つまり子ども二人におとな一人がつく計算です。
そんなにおとながいて一体どうするのか、と思われるでしょうが、実際にはなにもしません。沢登りだって、ザイルをフィックス(固定)したり、危険な箇所では多少の手助けをしますが、あとは全部、子どもたちが自分の意思で、自分の手と足で登りきるのです。おとなたちは、近くで見ているだけです。ただし、ただ見ているだけではありません。子どもの一挙手一投足を自分の死やのなかにとらえながら、そ知らぬ顔をし、いざ、コトがあれば、いつでも飛び出せる態勢をつくっているわけです。
「危ない、危ない」
で、すぐ手を出すよりは、じっと見ているほうが何倍か辛いわけですが、そのコトの持つ意味が大きいわけです。となれば、何人もの子どもたちをまとめて面倒見るなんてことは不可能ですし、コトが起こる前に飛び出すことだって、視野からはみ出したり、すぐ近くにいなければ困難です。だから、なにもしなくても、スタッフの数はたくさん必要なのです。ま、コトを起こさないための安全弁ですな。
【※注1】イギリスのアウトワード・バウンド・スクールをモデルに、本物の自然の中でほんものの冒険、野生活動を追求することを目指して、1977年から愛知県勤労者山岳連盟が実施していた「子ども冒険学校」。「子どもの遊びと手の労A働研究会」「人形劇団むすび座」「劇団うりんこ」「フォークグループ鬼剣舞」「愛知県立大学児童文化研究室」「イエティ」などと実行委員会体制を組み、1989年まで毎年夏に実施してきたが、年間を通して子どもの成長にかかわる組織としてNPO・子ども冒険学校協会を立ち上げた。現在では年間をとおしてパラパント、カヌー、岩登り、沢登り、スキー、スキューバダイビング・・・さまざまな国内外で子どもたちのアドベンチャー・スポーツを展開している。
A 安全だけは“他人まかせ”
● 予備知識も地図も持たずに
何年くらい前のことでしょうか。私は二人の仲間と木曽御岳(おんたけ)に登ることになりました。この二人の仲間は、登山をはじめて間もない人たちです。そのうちの一人は、前日まで参加できるかどうか不明。前日になって、「行きます」という電話。
「テントや食糧、みんなで使うものは用意しとくから、いつも山に登るときに持ってくものを全部持ってきてください。シュラフやマットも忘れないで」
こんな注意を与えて、さて当日、とにかく車に乗り込んで出発。
車中でいろいろ聞いてみました。
「御岳って、どこにあるのか知ってる?」
「いいえ」
「御岳って、何メートルあるか、知ってる?」
「いいえ」
「地図、持ってきた?」
・・・・・・沈黙・・・・・・
ここまできて、思わずブレーキを踏みそうになるほど、私の怒りは頂点に達しました。
「アホか! 仮にも3000メートルを越す山へ行くのに、予備知識も、地図も持たずに出てくる、それが山岳会員と名のつくヤツのすることか! あの木曽節にも謡われている“夏でも寒い”というのはただの歌の文句じゃない。ましてや今は十月、何かの都合で、おまえら初めて登るヤツだけになってみぃ、地図も持たずに、どうなると思っとるんじゃ!」
● あなたまかせはコワイ!
突然、前日に、「行きます」(この言葉には、計画がどうなっているか、他のメンバーに迷惑がかかりはしまいか、分担はどうなっているか、などという気配りは全くありません。自分の意思だけが表明されています)という電話については、新人だということでまだガマンできますが、自分がこれから登るのがいったいどこにある山なのか、標高は何メートルか、という予備知識も、地図すらも持ってこないという姿勢には、唖然とさせられたものでした。
人に連れて行ってもらう、ついていく・・・・・・形式はともかく、山に登る以上、それは、自分の足で登る、ということであり、それ以上でも以下でもありません。
すべてあなたまかせ、という姿勢は、山ではコワイもののひとつです。
● ハイキングでも同じこと
ハイキングでも同じことが言えます。登山とはルーツが違うようですが、わが国のような自然条件の中では、登山・ハイキングの間に一線を画すことは難しいことですし、自然を相手にすること、ガスも水道も電話もない(今ではケータイがありますが)ところへ出かけるという点では同じです。結局は自分の頭と足だけが頼りです。他の人に「命預けます」では困るのです。
死んでから文句言うなヨ!
私は、登山を「人間が人間として人間らしく生きるための糧」だと思っています。自分の意思で山に向かい、自分の力で登り、生きることの内容をより豊かにするものなのですから、登る側の主体的な姿勢が問われるのは当然でしょう。
●何もないところだからこその野外生活
「この前、新聞でちょっと紹介してくれたもんで、ちょくちょく電話がかかってくるんですヨ。それで、何聞いてくるかと思やぁ、“そこ、自然はキレイですか?”って。バカじゃないかって言うんですよ。おまえ、何考えてるんだ、って、ネ。この間もね、車でちょこっと来て、“写真と違う”って帰ってくんですヨ。あたりまえでしょ、季節や時間によって、ひとつもおんなじなんてこたァないですよね。自然がキレイかどうかなんてのは、自分の感性の反映だってのがわかんないんですね。おまけに、キャンプに来るのは、何にも持たないで、ワタシんとこへ来て、金さえ出しゃ、みんなできちゃう、そう思ってるお客ばっかり……」
今から20年以上も前。愛知県南設楽郡にある鳳来湖畔キャンプ場の夕暮れ時。トラックで運び込まれた装備やバスから吐き出された子どもたちでいっぺんに賑やかになったキャンプ場も、だいぶん落ち着いて、“仙人”と呼ばれる管理人・カワニシさんとコーヒーを飲みながら雑談していたときのことです。私はちょっとびっくりしました。“オレが考えてるのと一緒じゃねぇか”、そう思ったからです。
「お金がないから」とうのもひとつの理由でしょうが、湖畔を切り拓いて地ならししただけの空間、小さなトイレと三つほど蛇口のある流し場とささやかな売店、彼が自力で建てた小さな小屋を除いて、あとは樹林と湖だけという、ほとんど人工の手の加えられていないキャンプ場は、私たちはもちろん、多くの子どもたちと野生活動(あえて野外活動とは呼びません)をするのにまたちないフィールドです。整備されたテントサイト、雨や風にもビクともしないテント、屋根つきの炊事場、薪はひと束いくら、ファイアーは…などと、鋳型にはめられたキャンプ場がほとんどの昨今、どこにテントを張っても、どこで火を燃やしても、何をやっても“いい”というところはそうざらにはありません。まあ、はっきり言ってしまえば「何にもない」ところなのですが、その、何にもないところだからこそ、そこで生活するために、自分でモノを創り出したり、工夫したり、事前に十分な準備をしたりすることを余儀なくされるわけで、そこにこそ、野外で生活をすることのオモシロサが生まれてくるのでしょう。おまけに、何も制限がないだけに、自らを自然の中で律する、という課題がつきつけられています。カワニシさんはこのことが言いたかったに違いありません。
●道端の石ころ、一本の草花に
キャンプ場ならまだ、車が入ったり、連絡もつきやすいのですが、山となると、ケータイが普及したとはいえ、まだそうはいかないところもたくさんありますし、軽くなったとはいえ、生活のための道具、ナベカマから寝具、一切合財背負って出かけなければなりません。それより何より、体力・気力・判断力・知識・技術などの点は欠かすことができません。何しろ、相手は自然。何が起こるか、人間の想像を超えた力を持っているのですから、そのことをよく知ってかからないと、痛いメに遭うことになります。
「重い荷物背負って、エライ目して。遭難もよく起きているのに。それでも、山ってのは、そんなにええもんかい?」
こうよく聞かれるのですが、登ったことのないひと、見たことのないひとには、いくら説明しても、なかなかわかってもらえません。しかも、山登りといっても、ハイキング、軽登山、縦走、沢登り、岩登り(ボルダリング、フリークライミングなど、どんどん先鋭化・細分化しています)など、さまざまな形態があり、しかも積雪期、無雪期といった季節や条件の違い、日帰りか泊りがけか、といった日程の違いなども含めて考えると、これはもう、手がつけられません。
でも、はっきりしていることは、それらひとつひとつが、命を代償にしてまでも手に入れるものではない、といえることです。山登りは“ええもん”です。その“ええもん”であることは、登っている本人にしか確かめられないものです。道端の石ころや一本の草花に自然を感じとったり、陽に焼かれながら重い荷を背に、あえぎながら登ったり、そのこと自体の中に楽しみを見出すひとも、仲間と一緒に語ったり、苦労したりすることが楽しいひとも、汗を流したあとで一杯の水を口にした、そのウマさが忘れられないひとも、雄大な景色に心を奪われたひとも、さまざまにその魅力を感じ、その喜びを感じとっているはずです。死んでしまってはわかりません、ネッ。
●危険克服=登山へのつきない魅力
ですから、これから考えていくことは、「ひとつの山に行くのにも、これだけの準備がいる」ということです。知識も、装備も、技術も、基本的には『ひとの命を大事に』し、周到な準備と、細心の注意をはらって、登山を実質的にも、精神的な面でも、より安全におこなうために考え出され、練り上げられてきた、自然と人間の科学との接点なのです。でも、いくら万全を期しても、100%安全ということはできません。たとえかなりのところまで、人間の知恵で危険を回避できる状態をつくり出せたとしても、残り何%かの不安定要素と危険は残っているわけです。ま、この残り何%かが、私たちにそれを克服する努力をさせ、それでも残る不安と期待が登山へのつきない魅力を与えているのかも知れない、とも思うのですが………。
「危険」だから「行くな!」ではなくて、その「危険」を、私たちの知恵で、可能な限り回避して「行く!」のが登山です。
パソコンやケータイのマニュアルには結構その気になって目を通すくせに、ただ山に登るだけなのに、こんな面倒くさいことはかなわん、と思っているアナタ、そう言わずに……読メ。