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機関紙『もみのき』が500号を迎えました

 巻頭言   会は『もみのき』に育てられた

                                        洞 井 孝 雄

「6月から三カ月くらい歩いてくるワ」、「9月は500号ですよ。巻頭言、担当ですからね」           月末の発行だから帰って来てからでも時間はある、と思っていたら、帰国予定の数日前に確認のLINEが入っていた。〇〇日までに送ってください、とあった。途端に現実に引き戻された。まさか海外まで催促が来るとは思わなかった。                                                1981年に会ができ、1982年の夏にヨーロッパ遠征をした頃は、国外に出てしまえばそれっきり。帰ってくるまでは「連絡がつかない」状態。緊急やむを得ない場合は、出費覚悟の国際電話か一方通行の電報だけが通信手段で、あとは「仕方ないな」というのが、当時の一般的な理解だったし、それでコトは足りていたのである。                                         1988年の県連創立20周年のマッキンリー遠征の時は、事前の登山登録や登山許可の受け渡しは郵送、現地とのやりとりはかろうじて電話を使った。1990年に会創立20周年の台湾・玉山登山を実施した時は、事前の情報収集や現地との交渉にはある会社のテレックスを使わせてもらった。直前の細かな詰めは電話を使った。1995年にマッターホルンに出かけた前後からようやくFAXが普及し始め、宿の問い合わせや予約も短時日のうちに可能になった。                                   1996年に長野県山協と中国とのジョイントで実施されたチベットのチョモラリ(7326m)への登山では、ベースキャンプにインマルサットを設置し、衛星を介して必要な気象情報の入手、現地とNHK、信毎間のニュースの速報を送る、そんな時代で、高価な通信料がかかった。隊員と家族とのやりとりにはFAXが使われ、何日か遅れで、プリントアウトされた近親者からの近況報告や激励がラサから届けられる、まだ、そんな時代だった。                                         あれから30年近く経ち、スマホのLINEとかWhatsAPPなどを使えば、ほとんど無料に近い形で通信文も写真も瞬くうちに転送が可能になり、どこそこに出かけているから、という言い訳は全く通用しなくなった。常にどこかで誰かに見られているのと変わらない。                                   原稿などはその最たるもので、FAXの送信など考えることもできなかった時代、東京の雑誌の締め切りに間に合わせるためだけに新幹線に乗ることもあったし、新聞記者が夕刊の締め切りに間に合わせるために、後部座席に原稿だけが乗ったタクシーを支社から本社に走らせるのを目撃したこともある。それだけに原稿は大事にされたし、必死になって出稿前に校正作業をしたものだが、最近は、原稿は書くものというより打つもの、送るものになりつつある。通信手段の飛躍的な発達と、紙の媒体がより少なくなってきている、読む人が減ってきている、という状況も手伝っているのだが、部分だけを見て、全体を俯瞰するとらえ方ができにくく、またできなくなってきている人が多くなってきているようにも思う。インフラを前提にした電子媒体はもはや否定できない時代だが、紙媒体に書く、読む、という文化も捨てがたい。希少な情報伝達、収集、保存のあり方だと思う。今の時代の変化は、意図的にか、あるいは何も考えずにか、国会の資料や裁判記録を平気で廃棄してしまって顧みないバカな官僚たちを増殖させる温床にもなっていそうな気がする。                                                                         半田ファミリーの『もみのき』は、41年と8カ月、毎月出し続けて500号を迎えた。山岳団体も様変わりだが、私たちの会は、毎月の『もみのき』発行と、それに目を通して紹介してくれる雑誌(編集者)があって、その中でホメられ、時にはチクリとやられて、多くの山岳会とシノギを削り合い、育てられてきたと言っていい。そういう場はなくなったが、今の会は、この500号の上に成り立っている。そう思う。     支えて来てくれた会員にエールを贈りたい。

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